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その18

ゼロ除算の鏡像による解釈

半径1の原点に中心を持つ,円 $C$ を考える。いま,簡単のために,正の $x$ 軸方向の直線上の点 $(x,0)$ $(0<x<1)$ を考える。この点の円 $C$ に関する鏡像は $y=1/x$ である。この対応で $x$ がどんどん小さくなり,ゼロに近づけば,対応する鏡像 $y$ はどんどん大きくなって行くことが分かる。そこで,古典的な複素解析学では,$x=0$ に対応する鏡像として,極限の点が存在するものとして,無限遠点を考え,原点の鏡像として無限遠点を対応させている。この意味で $1/0 =\infty$ と表わされている。この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で,アーベルやオイラーもそのように考え,そのような記号を用いていたという。

しかしながら,このような極限の考え方は,適切ではないのではないだろうか。正の無限,どこまで行っても切りはなく,無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは,原点に対応する鏡像は $x>1$ に存在しないことを示している。ところが,ゼロ除算は $1/0=0$ であるから,ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際,鏡像として,原点の鏡像は原点で,我々の世界で,そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは,ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。

ゼロより大きな数の世界で,ゼロに対応する鏡像 $y=1/x$ は存在しないので,仕方なく,神はゼロにゼロを対応させたという,神の意思が感じられるが,それがこの世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。

この説は,伝統ある複素解析学の考えから,鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味 を有するものと考える。

無限の彼方に行くという考えは極限の考え方で,適切であるが,それは数値として無限ではなくて,数値ではゼロを意味するからである。ゼロ除算では無限遠点は存在するが,無限という数 の存在を否定している。そこで,複素解析の考え方,表現をいろいろ変える必要がある。

以下次号













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